零細米粉研究員の備忘録

米粉に関することなどをたまに書いていきます

3年前

震災からもう3年になる。つくばでは大した被害は出なかったものの、あの時の衝撃は今でも覚えている。

震災の前の日、申請していた研究予算が採択されたという連絡が来て、3月11日の午後は米粉からのDNA抽出の方法について、論文を読んでいた。

試薬の準備をしようとしたとき、地震が始まった。

 

同じ部屋にいた人が、「大きくなるぞ!本棚から離れて!」と言ってきた。

まさか、と思っていると一気に揺れがきつくなり、しかもいつまでも揺れが続く。

ふと外を見ると、池が波打って水が周りに飛び散っていた。

すさまじい揺れがひたすら続き、建物が崩れ落ちるのではないかとパニックになって机の下に慌てて潜り込んでずっと震えていた(建物は築40年くらいと古い)。

ようやく収まった時には放心状態であった。

 

運のよいことに、半年ほど前に耐震工事をしていたので、本棚は倒れず、1冊の本も落ちていなかった。

しかし、実験のサンプルは落ちたりして、部屋はかなり乱雑なことになっていた。

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余震が何度も続くし、危険で実験どころではなかった。

精神的にも研究する気分にはさっぱりならない。

 

外に出て見ると、けっこう多くの人が建物から出ていた。

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スマホを持っていて調べてくれた人がいたのだが、震源が宮城と聞いて驚いた。

茨城南部が震源とその時まで思っていた。

 

電気は地震の時に止まっていたが、しばらくしてついたので、休憩室のテレビを見ることにした。

津波が来るという予報であったが、テレビに映っている町並みは、特に大した被害は見えなかった。

津波もたいしたことないだろうと思って、実験室の片付けをしていた。

でも、余震が続くので片付けも諦めて休憩室で情報を得ようと思ってテレビをつけてみたら、信じられないものが見えた。

津波の映像であった。

あれが現実のものとは思えなかった。

船が流され、車が流され、家までが流されていく。

現代の日本でなぜこのようなことが起きるのか、信じられなかった。

 

 

しばらく呆然とテレビを見た後、研究所内を見て回った。

こちらでは誰も怪我もなかったらしい。

5時くらいまで少しだけ片付けをしたが、他の人も帰ると言うことで、自分も帰った。

 

5時半頃帰宅すると、何か様子が変である。

同じ宿舎の人がいたので話を聞いてみたら、電気、ガス、水道の全てが止まっているとのことだった。

職場はなぜか電気が通じていたし、帰宅の時に大通りだけ通ってきたので信号が普通に稼働しており、停電していたことに気がついてなかった。

話をしているうちに暗くなってきた。

部屋に入って懐中電灯を探すが見つからない。

たちまち暗くなってくるので探すのを諦めた。

暗いし寒いので、もう一度職場に戻ることに決めた。

 

今度は別の道にしたのだが、これは間違えていた。

信号機が停止しており、警察官が誘導するものの、あちこちで渋滞が発生していて動きが非常に遅かった。

該当はないので周りは真っ暗で運転もしづらく、事故を起こさないようにびくびくしながら職場に向かった。

職場はまだ電気があり、戸棚に入れておいたカップ麺を食べて夕飯とした。

職場も断水はしていたが、ポットにお湯が残っていたので助かった。

 

何もする気が起きず、ずっとテレビを見続けていたが、午後10時頃に、もしかしたら自宅(公務員宿舎)も電気が回復しているかもと思って帰った。

しかし、まだ停電していて、あたりは真っ暗であった。

歩いている人も自転車の人もおらず、ゴーストタウンに迷い込んだような感じであった。

今から思うと、巨大地震のあった直後に停電していたのに車で動き回るのは間違えていたように思う。

でも、あの時はじっとしていることができなかった。

 

また職場に向かったが、途中のコンビニがなぜか開店していたので、スナック菓子を買った。

この時点で弁当類は全く残ってなかった。

まさかあの後、ずっと品不足が続くとは、この時は全く想像してなかった。

職場に行くと、所長と、数人の職員がいた。

所長はテレビで写っていた津波の映像を見て、「これは1万人は死んだだろうな」と言っていた。

自分はその時は、そこまで多くはないだろうと思っていた。

後になって、所長の方が正しかったことを知ることとなった。